笑い話としか思えないが、亜希は乗り物に弱い。
かつて「黒い王子」とまで呼ばれた彼女がなぜ乗り物に弱いか。それ、実は皮肉にも五感を取りもどしたせいなのである。
失っていた五感を取りもどした数日後、ボソン・ジャンプどころか走る事もできないので仕方なくタクシーに乗ったのだ。結果は最悪で、タクシーのシートの抗菌剤の匂いと振動で酔い、よりによって同乗していた影護の手の中にゲロを吐いた。そしてそれ以降、酔い癖がついて直らなくなってしまったのだ。
もちろん亜希は、治療しようと様々な手をつくした。しかしその全ては失敗。ついには影護の「直さずともよい」の一言の元、自転車以外の乗り物を全て禁止されてしまったのである。
ちなみに、ナデシコくらいの大きさになれば大丈夫らしい。自動車などの、小型で車室のある乗り物がダメなのだ。旅客機すらもダメ。亜希は嘆いたが影護はむしろ喜んだ。難儀な話である。
閑話休題。
揚陸艇『ひなぎく』が降り立ったのは、空港の中で一番街に近い小さなシャトル用ポートだった。
「…先降りるよ〜ん」
「あっこら亜希!先に行くでないっ!!」
「や〜だよ〜♪」
サツキミドリの時同様、薬でハイになっている亜希は着陸するや否やシートベルトを外した。そしてそのままエアロックに行ってしまったのである。
「…影護さん。大丈夫ですかな彼女は」
「問題あるまい。そこらへんですっ転んだりドジをふむ可能性を除けばな」
「ほう。」
プロスペクターの目が、じっと影護を見る。
「影護さん。このひなぎくの通信は今、全て切ってあります。そのうえでご意見を伺いたいのですが」
「…」
それは、逆行者としての意見、という意味だ。
ちなみに現時点で、プロスは影護が木連の者とは知らない。歴史を知る時間移動者であり、かつてルリと敵対した事がある、という事しか知らないのだ。
だが、プロスは自身の知識と経験から、影護が木連の者であろうと当たりをつけていた。
「…この町は蜥蜴の勢力圏だ。これは間違いない」
「そうですか。しかし、ではなぜ私たちは無事なのでしょう。」
「妖精の話通りでぼぼ正解だろう。我も同意見だ。…ただ」
「…ただ?」
「それだけではない気がする。…根拠はないがな」
「…そうですか」
「行くぞ『人形師』。任務を遂行するのだ」
「!…わかりました。参りましょうか」
「うむ」
元木連の暗殺者、それに元地球の暗殺者。ふたりは立ち上がった。
ユートピアコロニーは、本来は大都市だった。
数十万の都市といえば地球ではさほどの規模ではない。しかし、火星では食料設備や生産拠点も同時に必要なのだ。年2回の砂嵐に備えて町のあちこちには防砂ドームもあるし、その砂を取り除くための土木機械も多量にある。結果として町は地球のそれより大きい。郊外の設備類や現在チューリップの落ちているあたりも加えれば、その規模は日本の政令指定都市の大きさに匹敵、あるいはそれ以上になる。
当然、そこにはバカみたいに途方にくれる亜希の姿があった。
「…広い〜。疲れた〜。」
子供の頃のように宇宙港からパタパタと走り出してみたはいいが、すぐに限界がきてしまった。へろへろと道路にへたりこむ。
「…」
綺麗な道路だ。そして、誰もいない。
「…いったい…誰が修理したんだ?」
亜希の顔が、いつもの女の子女の子したものから、かつての闇の王子様を思わせるものに変わる。
「イネスなら蜥蜴に指令できる通信機くらい持ちこんでるかもしれんが…それにしてもこの規模だぞ?ユーチャリスだってこんな規模の蜥蜴の制御なんてできないのに」
無人兵器の制御そのものは難しくない。地球と全く異質の指令系統だが、ちゃんとプロトコルがわかっていればそれは可能だ。戦艦クラスの防壁を破るならともかく。
「…むう…頭が働かん。影護のやつ、なんて薬飲ませやがるんだ」
ちなみに、影護が飲ませたのはただの漢方薬である。
亜希は漢方薬を常用しているが知識まではない。全て影護が見立てているからだ。かつての「闇の王子様」なら飲まされる薬の内容なんて当然調べつくしているはずだが、亜希はそこまで頭がまわらない。気にならない。影護を信用してしまっているからだ。
もはや彼女は、そういう意味でも「テンカワアキト」ではない。アキトも決して賢い人間じゃなかったが、ここまでおバカではなかったはずなのだ。女性化の時に肉体のみならず、頭の方もかなり弱ってしまったようである。
悲しい事だが、その事を一番わかってないのは当の本人なのかもしれない。
「…うぐ。男言葉、使いにくい。情けないなぁ…」
影護のバカ、と嘆く。もはや完全に言いがかりである。
「それにしても困ったなぁ。タクシーもいないし」
タクシーがいるとしたらそれは生存者を意味する。だがそれすらも頭が及ばない。ただでさえ抜けてる頭なのに、薬の影響でさらに回っていないようだ。
「…!あ、そこのバッタちゃん。ちょっとちょっと!」
その時、ちょうど前方の道路に出て来たバッタに亜希は声をかけた。
『…』
かくして、歩行タイプらしい黄色いバッタはノコノコと亜希の元に歩いてきた。パイロットランプを光らせ、キュイ、キュウ等とモーター音がしている。
「ねえバッタちゃん。悪いけど疲れちゃってもう歩けないの。乗せてくれないかな?」
『…』
バッタは話せない。だが、亜希の言葉にチカチカと肯定するような反応を示した。
「え?どこまでって?…あのね、この町に、イネス・フレサンジュって金髪で白衣着たおばさんがいるはずなの。彼女に逢いたいんだ。知らない?」
『…』
バッタは首をかしげる。だが、チカチカと何かが忙しくまたたく。
「え、探してくれるの?悪いなぁ。じゃ、乗るよ?」
こともあろうに亜希は、そのバッタによじのぼり上にちょこんと座った。
「んじゃ、レッツゴー!!」
キュ、と小さな音をたてると、そのままバッタは人間の駆け足くらいの早さで走りだした。
少し離れた丘の上。高感度の双眼鏡を持った和風の男。それに、白い制服の青年。
「…虫型戦闘機に乗りましたね。ごく自然に」
「やはり、か。これではっきりしたな。やはりあの娘は木連由来の者だろう。そなたの記憶にあのような者がおったか?」
「いませんね。ですが間違いないでしょう。彼女は木連人、さもなきゃ俺と同じです」
青年はスポーツ刈りの精悍な顔で、むうと唸った。
「危険はあると思うか?」
「ないでしょう」
「ほう。なぜそう思う?」
青年はためいきをついた。
「不用心すぎます。木連人でも未来の人間でも、戦闘区域をうろうろしてる虫型戦闘機が危険なのはどのみち承知のはずです。ああもあっさり声かけますか普通?」
「…確かにな。サツキミドリで我と話した折もそうであった」
「影護というひとについての情報はどうなんですか?北辰どの」
「皆目わからぬ。だがサツキミドリのあの戦闘の凄まじさ、そなたと同じく時を越えたとすれば並大抵の者ではあるまい。おそらくは我と並ぶほどの強者ぞ」
「へぇ……意外に、北辰どのご本人かもしれませんねそりゃ」
「なんだと?どういう事だ?」
北辰の投げ掛けた問いに、青年はにっこりと笑った。
「時を越えられるほどのジャンパーなんて、太陽系全部探しても数名しかいないんですよ。北辰どの。いくらA級でもね」
「ふむ」
「その中の一名、イネスさんは俺や艦長…ルリさんたちと一緒に飛んだ。ユリカ艦長は行方不明。残るひとりは…」
「ひとりは?」
「テンカワアキト。奴がジャンプする時巻き込んだのはマシンチャイルドの子供ひとり、それと…北辰どの、貴方なんです」
「…そうか。情報提供、例を言うぞ高杉三郎太」
「いえ、とんでもないっす」
「さて、貴殿はナデシコに向かうのか?それとも一度木連に戻り、東家に報告するのか?」
「戻るしかないっすね。ナデシコ時代のリョーコちゃんには逢ってみたいんすけどねぇ。へたに動いて、この時間の俺とバッタリ、なんてのも御免ですし」
青年は肩をすくめた。北辰は苦笑する。
「やれやれ。秋山と並び、優人部隊きっての熱血漢がそのありさまか。時間移動などするものではないな。」
「…草壁閣下にもご説明したんすけど、したくてもできませんよ、たぶんね」
「ほう?それはどういうことだ?」
「それも話します。とりあえず一度木連に戻りましょう。北辰どの。」
青年…高杉三郎太は、にっこりと笑った。
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