変貌世界

  時おり、放送が流れる。
  ナデシコは戦艦だ。飛行中は様々な情報が流れる。多くはデジタルデータとして伝播されるが艦内一斉に何かを伝えたい時は音声通信も未だ健在だ。何より受け取り側が人間である以上、ひとの手による肉声通信はインパクトがある。だから緊急時の通信などは基本的に音声とデータの両方で行われるようになっている。
  …だが今朝の放送は、いつもとちょっと変わっていた。
『亜希さぁ〜ん。影護亜希さぁ〜ん。いらっしゃったらブリッジ、艦長のとこまで来てくださぁ〜い。亜希さぁ〜ん。ねえ亜希さん答えてよぉ〜。ユリカ、ぷんぷ〜ん!』
「…いったい何なのだこのお気楽な放送は…本当に艦長なのかあの娘は?」
「あ、あははは…まぁ、ユリカらしいったららしいんだけど…」
「…」
  さすがの影護も、ユリカの盛大なズレっぷりだけは慣れようもないようだった。
「しっかし何なんだろ。やめてほしいなぁもう。恥ずかしいったらありゃしない」
  ちなみに亜希はコミュニケを持っていない。ナデシコに乗っているが単なる扶養家族でクルーではないからだ。ルリとプロスが持たせろと言い続け亜希も同意しているが影護が断固としてこれを拒否。そうすればいずれ、搦め手で亜希を誘惑しナデシコの運営に参加させられるに決まっているからだ。そのようなセキュリティホールを空けるなど容認できる事ではなかった。
  ついでに言うと「プライバシーの問題で」この部屋には放送こそ届くが非常時を除いて通信できない事になっている。無関係の一般人の生活領域だからだ。まぁそれは保安部の発案でもあった。うっかり夫婦生活のワンシーンなどに遭遇してしまえば風紀の乱れの原因になりかねない。ここは戦艦なのだから。
「うむ。茶をもう一杯くれ」
「…染まってるよ影護、あんたしっかりと」
「むう」
  呆れたように、それでもしっかりお茶を入れる亜希。なにげに主婦していたり。
「やっぱりコミュニケ貰おうかな。これじゃ食事もできやしない。」
「…止めはせんがその場合、そなたの手足をへし折り幻覚薬を注射するぞ亜希」
「!?」
  ギョッとする亜希。その亜希に影護は唸るような声をあげる。
「動けず意識も朦朧としていれば戦闘などできまい。直しても直してもその場で折り薬づけにしてやる。それでもよければコミュニケを着ければよい」
「…わ、わかったわよもう。わかったからそんな顔しないでよ」
「うむ。わかればよいのだ」
  そんな会話を、のほほんとしていたふたり。だが次の瞬間、
『仕方ないなあ。やっぱりルリちゃん剥こうかな』
『!や、やややややめてください艦長!』
『ま〜た他人行儀なんだからもう。お姉さまでいいって言ってるのに。』
『だ、だからその誤解を招く呼び方はやめ…っ!!』
「「!!」」
  その場の空気がその瞬間、確かに「ぴきーん」と固まった。
「…ほ、放送で流れてるってわかってんのかなユリカ…?」
「そういう問題ではないだろう亜希。正気なのかあの娘?戦艦だぞここは」
  しかし無情にもというかなんというか、その破廉恥極まる放送は全艦に流れている。整備区画の方から絶叫が聞こえるのは気のせいではあろうか?
『は〜やくおいでね亜希さん♪でないとルリちゃんどうなっても知りませんから〜。止めたかったら…あ、それと、かぶりつきで見たい場合も来た方がいいですよ。さすがに録画は許可しませんから。それじゃあ亜希さん、お・は・や・く・ぅ〜』
『きゃあっ!!』
  背後からルリらしい絶叫を折りまぜつつ、放送は止まった。
「…なんだかよくわからぬが…どうやら意地でもそなたをブリッジに呼びたいようだな。妖精の声は演技とモロわかりではあるし。」
「…でも、こんな放送何度もされたら恥ずかしくて艦内歩けないよもぉ。」
  確かに亜希に仕事はない。しかしレクリエーションルームとお風呂くらいは行くし食材はホウメイのとこに貰いに行かなくてはならないわけで、決して引き籠りというわけではないのだ。
「なんなんだろねもう。史実ならそろそろ国連本部に挨拶に行くはず…!!」
「む?なんだ亜希?」
「…」
  何かに気づいたのか、亜希の顔がみるみる青ざめた。
「?どうしたのだ亜希?顔色が悪…ん?」
  と、その時、影護のコミュニケがピッと開いた。
『影護さん。申し訳ないですが亜希さんを説得していただけませんか?』
「…なんのつもりなのだ?わが妻は単なる我の扶養家族だ。その妻に何をさせようというのだ一体?」
「影護、それ切って。ろくな事じゃないか「まぁ待て。これだけしぶといのだ余程の事だろう。話くらいは聞いてやろうではないか」…で、でも」
  渋る亜希を不思議そうに見つつ、影護はコミュニケに向き直る。
「で、何なのだ?つまらぬ話ならただではすまさぬぞ?」
『実はですねえ…』「…ほう?」『…なんですよー。いかがでしょう?』「わかった」
  何故だかにやりと笑い、即答で快諾する影護。ふと見ると亜希は逃げ出そうとしている。
「ブリッジへ向かうぞ亜希。準備せよ」
「い、いやあ用事がちょっと…」
「命令だ。否とは言わせぬぞ」
「!」
  ビク、と亜希の背中が震える。
「久々に、あの頃のように扱ってやろうか亜希。どちらが主で奴隷かをその身にたっぷりと…」
「わ、わかった、わかったからやめてやめてお願いっ!!」
  ナデシコに乗る以前に何があったのか。「奴隷」の言葉でたちまち勢いをなくし、すごすごと戻ってくる亜希。微笑む影護。
「…卑怯者」
「なんとでも言え。そなたは我のもの。我はそなたのもの。よってそなたは我に従わねばならぬ。そう骨の髄まで教え込んだ事、忘れてはおらぬな?亜希」
「…こっちが同じ事しようとしたらさせないくせに…」
「あたりまえだろう。我の方が強いのだから。そのかわり日常面ではそなたの言う事、なんでも聞き入れておるはずだが?」
「…」
  くく、と影護は楽しそうに笑う。わなわなと震える亜希。
「さて、まさかと思ったが用意しておいて正解だったな。本当は木連との正式の場で使う事を想定していたのだが」
「…ほんとに使うの?私、あんたの奥さんなのに?既婚者は振り袖着ちゃいけないんだよ?知らないの?」
「問題ない。艦長命令だからな」
  なるほどこの艦は面白い、と影護は楽しそうに笑った。
  
  
  
  ナデシコ出航初期のおバカ事件の代表と言えば、国連総会に振袖姿で通信した事だろう。
  だが、これには「ユリカ的には」無理もない理由があった。現状の地球の軍の腐り具合、それにナデシコの立場もユリカはちゃあんとわかっていたのだ。ナデシコの願い「抵抗なく穏やかに大気圏離脱」が適わない事も含めて。
  だったら、とユリカは考えた。徹底的に怒らせてやればいい、と。
  激怒した人間は冷静さを失う。優秀な軍人なら騙されないかもしれないが今の連合軍で、まともな判断のできる人間などほとんどいないのを彼女は知っていた。だからこその振袖、そしてあの煽ってるとしか思えない馬鹿げた挨拶劇だった、というわけだ。
  そして、ユリカの狙っていた作戦…「撹乱戦法」にはそれが最も有効だった。冷静な判断力のない頭のついた戦陣などハリボテのようなものだ。しかもこちらの目的は殲滅でなく遁走。四角四面に大軍団で突っ込んできた鼻面をさらにひっかいて混乱を増長し、単艦の身軽さでヒョイとすり抜けバイバイ、というのが大雑束(おおざっぱ)に言うところのユリカの作戦だったわけだ。
  …まぁもっとも、「どうせダメなんだから遊んじゃえ」とか「ついでにアキトも悩殺しちゃおう♪」というノリがあったのも事実で、そこらへんがユリカのユリカたるところだったわけだが。
「君はまず、国際的マナーを身につけるべきだな」
「あら、ご挨拶どうも♪」
  …というわけで、史実通りにその、後年「ミスマルユリカを象徴する事件」として知られる国連総会のバカ事件が今まさにここで炸裂中だった。
「…」
  ちなみに今回振袖を着ているのはユリカだけではない。その右隣にはルリが、反対側には亜希も立っている。本人のはともかくルリのはいつ調達したのか?実はウリバタケの私物らしい、というのはここだけの話である。…あんた戦艦に何持ちこんでるんだよ。まぁウリバタケらしいと言えばらしいのだが。
  なお全くの余談だが、この三人で着付けができないのは亜希ただひとりである。男である北辰は亜希に着付けを教えられなかったし、ルリは前の歴史でユリカに教わった。ユリカは元々着付けくらいできる。彼女はなんだかんだいってお嬢様なのだ。
「…それにしても、艦長はともかくルリルリまで着付けできるっていうのが意外よねえ。あの歳で普通できないわよ?偉いなぁ。」
「そうですね。人間開発センターって着付けの講習までやるのかな?」
  んなわけあるかい、と亜希とルリはメグミの大ボケに内心突っ込んでいた。
  ちなみにこの時点でミナトが既にルリルリ呼ばわりなのは、他ならぬルリのせいだ。前の歴史よりも各段にフレンドリーだし今回のルリは当然だが最初からミナトにかなり懐いているのだから。
  もっともルリは当初、なるべく昔同様に振舞おうとしていたのだが…そんなもの、あのダイヤモンド並みの超ガチガチだったかつてのルリを堕としてしまったミナトに通用するわけがなかった。ガードなぞ一日ともたず、あきらめて素で接する事にしたのだった。
  もっとも、ミナトがその驚くべき手腕を「保母さんの資格をとった時に」学んだ事をルリが知っていれば、反応は違ったのかもしれないが。
「しかしユリカくん」
「?」
  おや。今回は「前回と違う」歴史の相異点がまたあるらしい。
「昨日、君が非公式に我々に送ってきた報告書だが…あれは確かに興味深い。だがあれが事実だとして、ナデシコ単艦で行くのはあまりにも危険ではないのか?」
「はい。確かにその通りです。ですが単艦で行く以外に方法がないのも事実です」
「ほほう?その意味を教えて貰いたいものだ。是非に。」
「(なんだ?事前に何を送ったんだろ?ユリカ)」
「(私も初耳です。…もう。あれほど動く時は私に相談してくださいって念を押したのにユリカさんってば)」
  困惑ぎみにつぶやくルリ。
「現在のところ、火星を占拠しているのは対人型の無人兵器のようです。彼らは設備を破壊せず人間を探している。このタイプなら短時間なら出し抜く手立てはあります」
「ほう。なぜそんな事がわかるのかね?」
「全滅したとされる火星ですが、自動機械による電波は届いているのです。ネルガルのオリンポス研究所などの設備は未だに生きており地球に定期的に通信をしています。おわかりでしょうが、このような設備が放置されているのがその証拠です。」
「…なるほど。確かに危険だが単艦で行く意味はある、というわけか」
「はい。
  最新鋭艦であるナデシコを軍が徴発したい、というお気持ちは父…いえ、ミスマル提督にも伺っております。地球のことを思う気持ちは私も、そしてネルガルの上層部も変わらないでしょう。ですが、だからこそなのです。そもそもこの艦は事実上の実験艦ですし、軍事作戦に投入するには乗り越えなくてはならないハードルが多すぎます。それはご存じですか?」
「?…いや、それは何なのかね?」
「はい」
  ユリカは微笑むと、ルリの手をとり前に出させた。
「(ゆ…ユリカさん?)」
「(いいからいいから)」
  困惑するルリの姿。
  振袖にツインテールとは僅かに珍妙な組み合せだが、年端もいかぬ美少女の晴れ着姿は確かに可愛い。ほう、という声が国連側から口々に洩れる。その声に気づき、照れたのか少し赤面するルリ。一部でため息のような声もするのは気のせいだろうか?
「…その少女は?」
「この子はルリちゃんと言います。現在このナデシコの中枢は彼女と搭載されているAIの合議により運営されています。代替手段はなくはないですがはっきりいって使いものになりません。これが、私がこの艦を実験艦と報告書に書き添えた理由です。ナデシコは戦艦でありそれに値する火力もありますが、それを常に発揮するのはこの事実からわかるように無理なんです」
「…なるほど。確かにこれは看過できない欠点だな」
「しかもです。もし軍に徴用されるなら軍は11歳の女の子を徴兵したうえ、最前線を飛ぶ戦艦に乗せなくてはなりませんが…そこまでしてナデシコにこだわる意味が軍にあるのか私としては大いに疑問です。単に、ネルガルに同型の戦艦を発注すればいいのではないでしょうか?戦時下ですしこのナデシコの事もありますから、ネルガルも価格をつり上げたりはしないでしょう。」
「…ふむ。なるほどな」
「そしてその艦にはこの、ナデシコで得られた問題点をフィードバックさせればいいわけですし。そのための実験艦なんですから」
「…わかった。」
  司令らしい黒人の男は腕組みをし、そして破顔した。
「ナデシコに関する君「個人」の「非公式な」メールについては今、その真偽を含め討論していたのだ。その艦は技術的にも人員的にも非常に斬新な構成となっているがそれゆえ軍事作戦に使うにはあまりにも欠点が多く、兵装自体の問題点の炙りだしすらまだ完了していない。確かにこれでは軍でも、世論を抑えてまで徴用すべきものでない事は我々にもわかる」
「はい」
「だがねユリカ君。これは軍のメンツの問題でもあるのだよ。まだ軍人として宣誓したばかりの君には理解し難いかもしれないが」
「…それは、生存者とネルガル火星研究所の技術と引き換えにできるものなのでしょうか?」
「「「!!!」」」
  驚愕の声が洩れたのは通信先ではない。プロスペクターをはじめとするナデシコ側である。
「このナデシコをわざわざ火星行きに使うのには理由があります。単艦で木星蜥蜴の包囲網を突破可能な艦が現時点でナデシコしかないのもその理由ですが、そもそもナデシコが設計されたのが火星だからでもあります。かの地の研究所には、まだ地球側にもたらされずナデシコにも反映されていない技術がある。そして可能性ですが研究員も」
「…なるほど…それが火星に行く真の理由、か」
「真の、というのは違います司令。」
「ん?」
  きり、とユリカの顔が真剣なものになった。
「第一義は人命救助です。これは絶対です。私も譲らないですし関係各所へのプレゼンテーションという意味ではネルガルも完全にやる気です。それに実際、救助活動に取り組む私たちクルーにとっては今まで申し上げた軍やネルガルの他の思惑なんてどうでもいい事です。火星に灯は消えてない。ならば人は未だ生存の可能性がある。ならば!それを私たちは助けたい。それだけなんです」
「…」
「軍艦として考えればナデシコは確かに問題が多いでしょう。しかし人命救助なら話は別です!少数精鋭のエステバリス隊と高速機動のできる単艦のみ。確かに危険ですが…では力で押しますか?それこそまさか、でしょう?軍は今、地球の戦線の維持で手一杯です。いえ、それすらも崩解しかけています。非情なようですがそれも事実。現状でナデシコは最善の撰択です。ベストとは言えませんがベターではある」
「うむ、その通りだな」
「ですからお願いします、司令。道をあけてください」
「…」
  司令は沈黙している。ユリカの何かを見るかのように。
「ナデシコにはビッグバリアを突破する能力もあります。ですから許可など頂かなくても通過は可能ですが、だからといって破っていいものではない。」
「…?」
  そこで何故か、にっこり笑うユリカ。「へ?」という顔をする両陣営一同。「げげ」という顔をする亜希とルリ。
  
  
  

「だって、よい子は交通ルール守らなくちゃダメですよね!」
「「「……………はぁ!?」」」
「(……バカ)」
  
  
  
「…結局のとこ、どっかズレてるのよね〜ユリカって」
「…まぁいいのではないでしょうか?まさかビックバリアを開けて貰えるなんて思いませんでしたよ。本当にびっくりです」
  ユリカには本来、その程度の能力とネームバリューはあったはずである。名士の娘、というだけでもダメだし、優れた才能をもっていても若い娘ではアピールには弱い。そして、だからこそあえてプロスペクターは、両方持っている「お買い得物件」だった彼女を選んだのだ。フクベ提督というダメ押しまでつけて。前回の歴史でユリカがそうならなかったのは一重に、対アキト用に頭を割り振っていたがためなのだろう。
  だが、もちろんそれだけではない。
  亜希もルリも気づきはじめていた。歴史の食い違いに。
  前回は交渉の余地など全くなかったのだ。もし前回の状況でユリカがなんらかの書簡をあらかじめ送付していたとしてもこうはならなかったに違いない。そうふたりは考えていた。
  それは、不安。
  果してこの先どうなるのか、という思いが、少しずつふたりを不安に駆り立てていた。
「…あのね2人とも。…本人の目の前で…何言ってるのかな?」
「!」
  不機嫌そうなユリカの顔に、我にかえるふたり。
「いえ、これは悪口でなく事実ですから」
「…もうっ!プンプン!!」
  晴れ着のままでプンスカ怒るユリカ。
「はぁ。…それにしても、ルリちゃんも亜希さんも似合ってるねえ。うらやましいなぁ。」
「そんなことないです。ユリカさんもよくお似合いですよ。」
  だが、締めつけている胸がきつそうなのも事実だ。和服はスレンダーな体型にあわせてできているため、そのままユリカが着ると格好悪いのである。
  その点、ルリと亜希はごく自然である。…それはつまり貧乳という意味でもあるのだが。
「とにかく」
  コホン、と咳払いしてユリカは微笑んだ。
「具体的なバリア解除の日程は、プロスさんたちが詰めてくださるそうです。ナデシコはそれまでの間調整と待機となります。皆さん、交代で休憩をとってくださいね。お願いします」
「はい、わかりました」
  ブリッジ内に、僅かに残っていた緊張がほぐれた。
「それじゃルリちゃん、私たちは戻って着替えようね。亜希さんも来てください」
「…い、いや、もう脱ぐだけだし」
「もう、ダメダメ。着物は畳み方も大切なんです。ルリちゃんもそのあたりまだ甘いみたいだし、私のお部屋で三人でやってみましょう!」
「!」
  あ、と亜希の顔色が変わった。
「(…そういう事か。我とした事が…ぬかったわ!)」
  ブリッジ下のパイロットブースで、悔しそうな影護のつぶやきが聞こえた。

hachikun-p
平成15年11月11日