紅茶の香りと、ケーキの甘い匂い。
ごく一部には例外も居るが、基本的に女性は甘いものが好きと言われる。何故なのだろうか?その問いに対し、ある者は「未来において子を宿し育てるため」と評した。
妊娠/出産という行為は、女性の心身に膨大なる負担をかける。何しろ成熟した女性の身体というのはその全てが、子を宿し育てる柔軟で強靭な「ゆりかご」なのだ。既婚者の女性が時としてふてぶてしく、たくましくなるのもそのため。本能なのか別の理由かの判断は専門家の薀蓄(うんちく)に任せるとして、とにかく女性はこれを境に「女」から「母」に変貌する。これだけは世の東西を問わず事実であろう。
で、強くなるにはエネルギーが必要だ。甘いもの、すなわち糖分はてっとり早くエネルギーを供給する手段である。本来なら妊娠にそなえてカルシウム等の摂取も必要なのだが、まぁとりあえず甘いもの。短絡?いいやとんでもない。食べ物のより好みができる国なんて今も全世界からすればそう多くはない。だからそれで正しいのだ。
「いえ、そんなことはどうでもいいわけですが」
「そうだな。で、我の分はないのか?」
「影護。イチゴショート半分あげる」
「うむ、イチゴはそなたが食え。我はこちらでよい」
「はぁ、仲良しねえ。私はチーズケーキを貰うわ」
「はいはい、イネスはこれ。ルリちゃんは?」
「…」
「?どうした?妖精?」
「…」
ルリが呆然と見ているのも無理はないと思う。
「…影護さん」
「んむ?」
「……いえ、なんでもありません」
影護。つまるとこ彼は北辰である。
逆行して若返っているものの、爬虫類顔は健在だし普段着も袴や和服。思いっきり木連くささ大爆発である。実際、今だって着物を着ているのだ。ナデシコに乗り込む時だって荷物は大小の「つづら」に入れ、大八車に積んできた。たっぷり五百年はズレたその光景はあまりに目立ち、彼らは知らないが翌日の佐世保のコミュニティ誌に写真まで掲載されている。
ちなみに蛇足ではあるが、その大八車の上では着物姿の亜希がちょこんと座り、りんごを喰(は)んでいたそうな。…ますます時代錯誤な。もちろん火星生まれの亜希の趣味ではない。木連人の影護にとり、女を飾るは男の甲斐性だからである。
閑話休題。
とにかくまぁ、それは異様な光景だった。時代劇の茶店で団子を食いそうないでたちの影護が、フリフリのエプロンドレスを着た亜希と、よりによってイチゴショートをはんぶんこしているのである。
(…北辰がイチゴショート…はんぶんこ…イチゴショート…)
「…何を悩んでいるのだ?妖精?」
「いえ、なんでも」
「…はぁん」
「?どうした?亜希」
「いや、影護ってケーキっていうより、ぜんざいとかおしるこが似合いそうだよね?」
「ん?…おぉ、あれもよいな。しかしフタバヤのケーキセットも」
「「中で食べたんですか!?」」
「?ん?そうだが?」
「「…」」
フタバヤのセットはお持ち帰りができない。つまり、この格好で女学生などにまじり、おしゃれなテラスでセットを食した事になる。
なお、どこぞのカイゼル髭のサリーパパおやじは史実でこれを持ち帰った。だがそこには理由がある。考えてみるがいい。いかつい面した軍服姿のオッサンが真っ黒なVIP用リムジンでフタバヤに乗り付けケーキセットを持ち帰りでとほざいたのだ。悲劇のカウンター嬢は悪夢を見る思いだったろうし、他の担当者もお持ち帰り包みを最優先かつ大喜びで作成した事だろう。娘の喜ぶ顔を想像し不気味な笑みでクックッと震える大男の軍服カイゼル髭。超イヤすぎる激イヤすぎる。間違ってもケーキ屋でバイトなんかしたくない。これが下着売り場で相手が私服なら迷わず通報するのに。あぁなぜ私はケーキ屋なぞに。トホホ…とまあ、そんな感じであったろう事は想像に難くない。
またまた閑話休題。
とにかくルリとユリカは、乙女ちっくぶりぶりなフタバヤの中、羽織袴の「盛装」で悠然とケーキセットを食べる影護を想像してしまっていた。…もちろん座席の傍には編笠つき。杓杖も立てかけてあったりして。
そりゃあ、和装のひともフタバヤに来ないわけではない。しかしそれは成人の日の話で、しかも女の子の振り袖限定の話である。どう間違えても編笠はないだろ編笠は。
(……)
ルリとユリカはお互いの顔を見、「あははは」と乾いた笑いをこぼした。もう笑うしかなかった。
「……」
イネスはそんなふたりと影護を、面白そうに見くらべていた。
「話を戻すぞ。遺跡とテンカワユリカの件だ」
「ちょいまち影護。ほっぺにケーキ」
「うむ」
「「「……」」」
もはや突っこむ気力もなくしているルリとユリカ。ちょっと呆れ顔のイネス。
「…ん、とれた」
「よし。…でだな、遺跡とテンカワユリカの件なのだが」
「あ、はい。何か問題があるんでしょうか?」
この和やかな席に影護がいるのは一応、イチゴショートのためではない。いやマジで。そもそも、「テンカワ」ユリカが影護の分のおみやげを持たすはずがない。今は未来の事とはいえ、「テンカワ」ユリカはかつてアキトの面前で影護にレイプされた身の上なのだから。
影護がここに居る本来の理由は、別の事だった。
「実はな…これを見よ」
そう言うと、ポケットから小さなボタン型の半導体レコーダを取りだした。
「…小型レコーダですね。珍しいものを」
「電波を出せば、そなたやその他の者に気づかれるからな。欺くならまず味方から、であろう?」
「なるほど、そうですね…!」
ユリカが、あぁなるほど、という顔をする。
「つまりそれ、亜希さん用なんですね?」
「その通り。万が一のために、こやつにはレコーダや発信器をいくつか着けてあるからな」
「!?ちょ、ちょっと!私それ初耳!!」
「当然。話しておらぬのだからな」
「こ、こらこらこらっ!ひとのプライバシーをあんたは」
「そうですね。でもまぁ亜希さんですし」
「うん、亜希ちゃんだし」
「…ま、仕方ないかもね」
「ちょっとぉ〜っ!イネスまで!」
誰も味方になってくれない事を嘆く亜希。苦笑する影護。
「まぁ聞け亜希よ。
このレコーダは今日の分だ。つまり、そなたとテンカワユリカの邂逅が録音されておるのだ。」
「!」
「一応、悪いが聞かせて貰った。あの女は完全単独行で全く動きが読めぬからな。こうした事から判断するしかないのだ。不愉快だろうが許せ」
「…ま、まぁ…影護がそう言うなら」
「うむ」
知力が大幅に低下している事を亜希は自覚している。そのためこういう小細工が必要なことも。
しかしそれもまあ、影護を信頼しているからこそ許せるのだが。
「正直、まずいぞこれは」
「え?なんで?平和に向かってるんでしょ?」
当然といえば当然の疑問を投げる亜希。しかし影護の顔はすぐれない。いや顔色はすぐれない。
「そう簡単にいくか馬鹿者。和平というのはそう綺麗事ではないのだ。
よいか?
草壁閣下が直々に動くならば、確かに木連側に心配はあるまい。だが地球側はどうなる?クリムゾンや明日香インダストリー等の企業、そして諸々の国家群。黙っていると思うか?」
「ええわかりますよ影護さん。ですからプロスさんも本社と協議を」
「甘い、それが甘いのだミスマルユリカ」
影護は、困ったように首をふった。
「そなたにしても、その未来であるテンカワユリカにしても、確かに戦術の天才。その力は戦艦のみならず政治面でもかなり有効に作用するであろう。すなわち、テンカワユリカが天賦の政治力と全く制約のない無限の跳躍力を駆使すれば、確かに歴史は変わる。戦争はおそらく早期に止まってしまうであろう。」
「いい事じゃない…!痛っ!もう、なにすんの影護!」
「そなたは黙っておれ。またテーブルの下で『おしゃぶり』させてもよいのだぞ?」
「…」
「話を戻そう。
そなたにしてもテンカワユリカにしても、確かに有能だ。
しかしな、急ぎすぎなのだ!」
「…急ぎすぎ、ですか?」
「その通り。このまま行けば、特にクリムゾンは完全に蚊帳の外に置かれる事になる。時間がないからだ。時間があればクリムゾンとて対策を練る。和平を乱さぬよう各地に食いこみ、今までとは別の形で利益を保つだろう。そして生き延びる。企業とはそうしたものだからな。
だが今回は時間がなさすぎる。これはまずいのだ。」
「!」
「…はぁん」
ユリカが気づいてほどなくイネスも、なるほどねえと頷く。ルリも気づいたようだ。
「クリムゾンが動くぞ。おそらく、木連に残る戦争継続派、それに彼らの食いこむ連合軍側の人間も巻き込んでな。彼らはこのナデシコを、あるいは我や亜希を真っ先に狙う。物理的に狙うとも限らない。我らを危険人物なりとプロパガンダをひく手もあろうし、政治的にナデシコを孤立させて総力戦をしかける可能性もある。
本当に和平の流れが固まれば、その流れはもう止まらぬ。亜希や我が欠けようと、ナデシコごと消えてしまおうと問題はない。だが今は違う!今まさに我らは『和平をなすための象徴』なのだ。今我らが欠ければ停戦派と継続派は入り乱れ大混乱に陥る。そしてその中でかつての戦争以上の犠牲が出る。賭けてもいい。間違いなく戦争は泥沼となるであろうよ。」
「「「…」」」
皆、黙ってしまった。
「で、でもユリカはそれくらい」
「わかっておらぬ。おそらくな」
「!」
亜希の言葉を、あっさりと影護は切り捨てた。
「遺跡のことは我もよくは知らぬ。だが、あれに融合した人間はおそらくテンカワユリカ、ただひとり。当然、あの娘も遺跡も知らぬ。どろどろと思惑や情念渦巻くこの世界の理についてまでは考え及ぶわけもない。だからそれは」
「待ってください」
「ん?」
黙っていたルリが、影護に声をかけた。
「経験不足という意味では確かにユリカさんはそうです。でもそんな危険をみすみす放っておくひとでもないと思いますが?」
「…問題ないのだ、おそらくな」
「え?」
影護は、ルリたちの困惑げな顔をじっと見た。
「…女科学者は気づいておるのではないか?」
「…ええ。まさかとは思ってたけど…やっぱり影護君、貴方もそう思うの?」
「うむ」
イネスの言葉に肯定で返す影護。
「よく聞くのだミスマルユリカ。妖精。そして亜希よ。
テンカワユリカが望むは二つある。ひとつは和平。そしてもうひとつは、亜希が闇に落ちずに生涯を過ごす事なのだ。
だが、ここで問題点がひとつある。テンカワユリカは遺跡と融合しておりその基盤は遺跡に置かれている。つまり彼女はある意味、もはや人間ではない。その能力のこともある。一種の超越者と考えて差し支えなかろう。
超越者の観点から見た世界。おそらくそれは壮大なる「箱庭」。なまじ優秀であり天才であるがゆえにテンカワユリカは知っている。どのような道を選ぼうと犠牲は出る事を。ならば犠牲を最少限に世界を救う方法を、と考える。悩むまでもない。亜希。テンカワユリカはそうした娘だ。そうであろう?」
「はい、そうですね。…でもそれのどこが問題なんですか?」
「まだわかっておらぬのか、妖精。…最大公約数の平和。その中に我らが含まれると本当に思っているのか?」
「!?」
え、という顔をルリが浮かべる。
「過去を知り未来を知る逆行者。装備さえあればたったひとりで世界を狂わす事すらできる娘。そうした存在は不安要素なのだ。それを「和平を望む超越的な歴史の改竄者」が見過ごすわけがないであろう」
「!まさか!ユリカさんですよ!?そんな馬鹿な!!」
「いえ、そのまさかよホシノルリ」
「!?どうしてですかイネスさん!!」
悲鳴のような声をあげるホシノルリを、イネスは苦笑して制する。
「ユリカさんが遺跡と融合している、というのが原因なのよ。
たとえば亜希ちゃんが死ぬ。普通はそれでおしまい。でもユリカさんにとっては違う。もともと亜希ちゃんはユリカさんと同じく遺跡に融合しているんだから。影護亜希、という今の入れ物がなくなるだけで全く問題はない。それは単に作り直せばいいだけなのよ。」
「で、でもっ!」
「私や影護君がどういう扱いなのかはわからないけど、少なくとも貴女もそうよ?ホシノルリ。あなたはユリカさんの娘だもの。もしかしたら、同じ青年を愛した貴女にとっては母というより恋敵かもしれないけど」
「!!」
「あら、ユリカさんが気づいてないわけないでしょ?」
「…」
「もともと、あなたたちはテンカワアキトという青年を中心にして結びあった義理の家族。もしあの事件がなければどうなったのかしら?少女から女になった貴女と女盛りのユリカさん。壮絶な刃傷沙汰になったか、それとも、より強固に結びあい、二人プラスワンでなく本当の意味で三人になったのか…ふふ、科学者の私にはあまり意味のない事だけど、個人的にちょっと興味はあるわね。『うちにはママがふたりいるんです』って?」
「…よくそんな事言えますね。貴女だって」
「あら、私は愛人でいいもの。それくらいどうにでもしたわよ」
「!」
平然と肩をすくめるイネス。
「…」
「どうしたんですかユリカさん?」
こちらはもちろん、こっちの『ミスマル』ユリカである。
「…アキトってそんなに浮気しまくってたんだ」
「いろいろ事情があるんですよユリカさん。」
「わかってるよ。わかってる。でも…ルリちゃんまでそうだったなんて複雑だなあやっぱり。それにイネスさんもだなんて…アキトって随分と趣味が広いんだねえ」
「…いえあの、違うんですけど…」
「え?」
どこかズレたユリカの意見に、ルリたちはまたもや苦笑いするしかなかった。
「…とにかくだ」
影護は宣言するかのように、皆を見回した。
「ここから先は非常に危険になる。間違いなく。
必要とあらば、このナデシコを捨てて隠れる事も含め、あらゆる対策を練る必要がある。そなたらは何か案があるか?」
「案といっても…これって要は、ユリカさんに尻尾を掴まれているに等しい状況なわけですが」
「たわけ」
「え?」
困惑顔をするルリを横目に、影護が苦笑する。
「確かに、完全なる跳躍の制御というのは脅威であろう。しかし逆に言うとあの女の力が及ぶのはそれだけなのだぞ?」
「え、ええ。それは確かに」
「勘違いするでない。跳躍の制御ができたからといってこの世の全ての因果律をいじれるわけではないのだ。
だったら話は簡単ではないか。あの女が我らを消そうと思わない程度に状況をいじればよい。わかるか?妖精よ」
「…えっとその」
「…ひとつ提案してあげましょうか?」
「え?あ、はい」
悩み顔になってしまったルリに、イネスが助け船を出した。
「亜希ちゃんと影護君については、単にほとぼりが醒めるまで守り抜けばいい。それだけなの。それより問題はホシノルリ、貴女。」
「…!あ」
やっと気づいたの?という顔をしてイネスは微笑んだ。
「ただでさえ最年少クルー、という事で貴女は目立つ。しかもマシン・チャイルドという現実。たとえこの戦争でどうなろうと必ず目をつけられる。いえ、今回はジャンパーという強烈な存在がいない。だからこそ、以前の歴史よりずっと激しく注目されるはずなのよ。
だったら後は簡単でしょ?無能さをアピールすればいい。作られた存在でもやっぱり子供は子供なんですってね」
「バカのふりをする…という事ですか?」
「ま、てっとり早く言えばそう。ちょっと有能な普通の女の子、くらいにしてしまえばいいわけ。幸いなことにナデシコは今までほとんど戦闘を経験していない。だから今からでも間に合う…そうね」
イネスはしばらく黙る。何か考えこんでいるようだった。
「まずはプロスペクターに持ちかけるのね」
「プロスさんにですか?」
「ええ。
ネルガルにしても、貴重なマシン・チャイルドが世界中から狙われるような事態は避けたいはずよ。だからこう持ちかけるの。『やっぱりひとりでは荷が重いです。サポーターを探してくれませんか』ってね」
「…そんな事でうまく行くでしょうか」
「いくわよ、たぶんね…違う?影護君」
「そうだな。それならいいかもしれぬ」
イネスの言葉に、影護は頷いた。
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