影護亜希は、悩んでいた。
突然に起きた、あまりに早すぎる木連との和平話。もちろんそれはまだ萌芽にすぎない。けれど歴史とあまりに違うその展開に、働かない頭をひねって必死に考えていた。
「…どうして、なのかな」
展望室で夜空を見上げ、亜希はつぶやく。
今、展望室が写しているのは地球のとある街角。亜希がアキトであった頃、屋台をひいていた場所にとても似ている。彼女のおきにいりのひとつだ。
「お悩み中って顔ですね」
「…ルリちゃんか」
シュン、と扉が開き、ルリが入って来た。
「隣、いいですか?」
「もちろん」
亜希は座っているベンチを少し詰めた。そこにルリが座る。
「…懐かしいですね。あの街角に似てます」
「屋台もチャルメラもないけどね」
「…」
クス、とルリは笑った。
「アカツキさんから通信が来ましたよ。さっきプロスさんとお話を」
「へえ」
「『前回』は私の権限でも見られなかったんですが。何しろあの通信室は電源以外全て独立系でしたからね。今回はこっそり接続してあります」
「…悪い子だ」
「そりゃあもう。なんたって亜希さんの娘ですから」
ふたりは顔を見合わせ、クスクス笑った。
「地球のネルガル本社にも木連の使者の方が極秘に現われたそうです。これはもう確定ですね。本気で和平に向けてつっ走るつもりですよ木連は」
「なんともね…軍とかクリムゾンはどうするのかな。」
「大変でしょうね。ですがそれも木連の方々と詰めておられるようです。
現時点で、軍にも和平に協力的な方々はおられます。極東のムネタケヨシサダにミスマル叔父様をはじめ、欧州にも、あとアジアにも。例外はクリムゾンの勢力の強い北米とアフリカでしょうか」
「欧州やアジアの人達って、具体的な名前は?」
しかしルリは微笑み、首を横にふる。
「亜希さんは知らなくてもいい事です。…いえ、知らないでください」
「!ちょ、ルリちゃんまで何を」
「いいえダメです。それに、これにはちゃんとした理由があるんですよ」
「?」
へ?という顔をする亜希に、ルリは笑う。
「亜希さんは『和平の象徴』ですからね。あまり動揺したりしないで欲しいんです」
「?でも別に情勢を知る事は」
わからないんですか、という顔をするルリ。
「いえ、ダメです。おそらく地球に戻ったら、ナデシコであちこち歴訪する事になると思うんですが…影護さんや私たちの言うように行動してくださればそれでかまいません。
逆に、変に知識をもって警戒したり色眼鏡で見ない方がいいんです。不信や不安は伝播しますからね。無用に勘ぐられるのは嫌じゃないですか。」
「…う〜ん…それはそうなんだけど…」
言い替えればそれは、アホはアホらしく口出しすんな、という意味である。
しかしルリはそう言わない。のほほんと平和にしていて欲しい、というのはルリの本心だからだ。
「(亜希さんはいわば渦の中心ですからね。世界で一番危険な立場。だからこそ平和でいてほしいんです。)」
「?何か言った?」
「?いえ何も。」
ふふ、と笑うとルリは亜希にゴロゴロとしなだれかかる。
「!ん、ルリちゃん…あまえんぼ」
「いいんですよー。娘ですからね。無邪気に甘えるくらい、いいじゃないですか」
「はぁ…ま、いいけどね」
ここだけの話、ルリはおしりだの胸だの、どさくさに触りまくっている。亜希ももちろん気づいている。いったいその行動のどこが無邪気なんだと言いたいが、手つきの悪さはともかく甘えているのは事実。まぁいいのだろうこの場合。亜希も苦笑するだけで何も言わないのだから。
「…それにしても、あれ、なんだったのかな?」
「弾丸のことですか?影護さんには聞かなかったんですか?」
「ううん、聞いた。遺跡に関係する事もね。…でもなんでだろ?」
「…それで気づかないんですか?」
「…う〜ん…それなんだけどね」
「?」
亜希は、むうっと渋い顔をした。
「遺跡のことを考えようとするとね、なんか思考がまわらないの。頭の中に霞がかかったみたいになって」
「…そうなんですか?」
「うん、そう。なんだか嫌だな。どうなってんだろ、私」
「…そう、ですか。」
「…?ルリちゃん?」
「…」
ふと亜希は、ルリが泣きそうな顔をしているのに気づいた。
「ちょ…!ルリちゃん!どうしたの?」
「いえ、すみません。なんでもないんです。…そうですか。それでいいのかもしれませんね」
「?」
「いいんです亜希さん。気にしないでください」
「…う〜ん」
「わかりました。じゃあ、どうしてそうなるのかだけでも『説明しましょう!』!?」
いきなりルリと亜希の間にウインドウが湧いた。反射的に飛び退くふたり。
『あら、ひどいわね。どうしたの?』
「ど、どうしたもこうしたも…いつから聞いてたんですかイネスさん?」
『最初から、かな。亜希ちゃんの悩んでる顔を観察してたら貴女が来たのよ』
「あのね…覗き見なんてしないでよもう!」
うふふ、とイネスは微笑んだ。苦情を聞き入れるつもりはないらしい。
『それはそれとして、遺跡の件ね。
簡単よ。遺跡は亜希ちゃん、あなたを女の子にしちゃった帳本人なのよ?いったいどうやってそんな事したのかわからないけど、そんな真似ができるのなら思考の干渉くらい簡単だと思わない?』
「そりゃそうだろけど…理由は?どうしてそんな干渉するわけ?」
うふふ、とイネスは笑った。
『そうねえ。
私にもよくわからないけど、もしかしたら亜希ちゃん、ある意味遺跡とつながってるのかもしれないわね』
「…え」
亜希は、きょとんとした顔をした。
「それ…どういうこと?」
『ユリカさんの事を思い出してごらんなさい。
彼女は遺跡と同化していた。けど、救出された彼女はちゃんと、昔のユリカさんそのままだったのよ。おかしいと思わない?』
「??」
『んーそうねえ。』
イネスは眉をしかめた。亜希にわかりやすそうな言葉をさがしているようだ。
『たとえば、ここにコーヒーと角砂糖がある。コーヒーは遺跡、角砂糖はユリカさんね。遺跡に組み込まれたユリカさんは角砂糖のようにコーヒーに溶けてしまってた。これを分離するなんて本来不可能。できるわけがないのよ。
でも実際には分離できた。そういうこと』
「…う〜。ますますわかんないよ」
頭を抱える亜希に、イネスは微笑んだ。
『…分離、できてないのよ。実際には。そんなことできるわけないの』
「!?」
『当然でしょ?コーヒーに溶けた角砂糖を、どうやって分離するっていうの?
実際には分離できてない。でもユリカさんは分離できてしまった。それはなぜか。遺跡がユリカさんとの通信を切ったから。ユリカさんは身体が弱ってたから。物理的に同化している時ならともかく、離れている状態でそれをやるとユリカさんの生命が危険。だから遺跡はリンクを閉じて、ユリカさんから遺跡にアクセスできないようにした。
人間と遺跡の通信はイメージ、つまり思考の伝達で行う。それを遮断する。つまりそれは遺跡について考えようとしたら妨害されるって事になるの…わかった?』
「そんな…じゃあ私って」
イネスは、こくんと頷いた。
『亜希ちゃんはジャンプの時、いちど遺跡にとりこまれたのね。
そして、そこで再構成された。作りかえられ、もう一度吐きだされたわけ。
でも、そのままじゃユリカさんのように遺跡の一部になってしまう。だから通信路を遮断した。遺跡についてあまり考えられないようにしてしまったわけ。』
「ん〜…やっぱりわかんない。どうしてそんな事するの?そりゃ私も身体は強くないけど、でもそれでも」
『…ボソン・ジャンブさせないために決まってるでしょ?』
「え?」
イネスの目が、鋭く光っていた。
『バカね。たとえ戦えなくてもおバカでも、CCもなしに好き放題にジャンプしまくれれば、それだけで危険でしょう?』
「!!」
亜希の「あっ」という顔を確認すると、イネスは悪戯っぽい笑いを浮かべる。
『ま、そんなわけであまり悩むのはおやめなさい。無駄な行為なんだから』
「…んー、そっかぁ。うん、わかった」
『あとね、いい事教えてあげる。…ユリカさん、やっぱりこっちにいるわよ』
「「!!」」
ルリと亜希の顔が、揃って驚きに包まれる。
『何おどろいてるの?当然じゃない。遺跡を制御してるのは彼女なのよ?』
「そ、そんなどうして!!」
亜希の声が絶叫に近くなる。
それはそうだろう。亜希が黒い王子様となり全てを捨てて戦ったのはユリカのため。そして彼女は救助されたはずなのだから。
「…」
ルリも呆然としている。しかし彼女の驚きは亜希とは意味が違っているのだが。
『遺跡の力は時間も空間も越える。忘れたの?』
「…」
『心配って顔ね…ま、それもそっか』
イネスは、ちょっと寂しそうに微笑む。その内心はいかがばかりか。
『一度逢って来るといいわ』
「え?」
『…呼び掛けてごらんなさい、亜希ちゃん。ユリカって』
「…」
亜希は目を閉じ、僅かに眉をしかめた。
「!」
その瞬間、ルリの目の前で亜希は消えてしまった。そう…幻のように。
「!そ、そんな!」
『心配ないわホシノルリ』
「で、でもっ!」
『ユリカさんは彼女を戻してくれる…私たちは待ちましょう』
「…」
『いいわね、ホシノルリ』
「…わかり…ました」
ルリとうつむき、つぶやいた。
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