忘れられた男。目立たない秀才。器用貧乏。アオイ・ジュンに対する皆の評価はそうである。
けれど、ガイのそれと違って無能と勘違いされてないあたりは救いと言えば救いだ。それに彼はいわば縁の下の力持ち。彼が目立つ時はナデシコがピンチの時。だから彼は目立ってはいけないのだ。
「戻られるのですか?」
「うん、ここまでありがとう。助かったよ。」
「いえ、とんでもない。…ところでですね」
「?なに?」
「実はその…パイロットスーツの予備が今ないのです」
「え?そうなの?…おかしいな。ここに来る前に手配をしておいたはずなんだけど」
ジュンは今、軌道上のデルフィリウム発進基地にいた。
史実通り、しっかりナデシコに置き去りにされてしまったジュン。彼はナデシコに戻るべく八方手を尽くし、ようやくこの場に来たのである。
「いえ…そうではないのですが」
「?何かあったの?」
「いえその…じょ」
「じょ?」
「…女性用のスーツが届いてしまっているようでして」
「……はぁ!?な、なんで?」
ちなみにジュン、その名前からよく女性と間違われる。だから彼はしっかりと性別については指定してあるはずなのだ。
「そんな…なんでこんな時に…どうすればいったい…」
「…失礼ながら、やはりそれしかないかと」
「…は?」
「いえその…女性用でもスーツはスーツですから。まぁその、若干窮屈ではあるかと思われますが」
「……」
「…あの、少佐?」
「……情けないが…やるしかないか」
「ええ、そうですね。申し訳ありませんが」
「…はぁ」
周囲の軍人たちが興味津々とジュンを見ているのに、彼は気づかない。
実は、ジュンのとこに女物がよく届けられるのは彼のせいでも間違いでもない。本人は知らないが彼をいろんな意味で気に入っている女性参謀が連合軍内におり、その種のいたずらや間違いはほとんど彼女のさしがね、というのが知るひとぞ知るアオイジュンの隠されたふたつ名、「タカラヅカジュン」の由来だったりする。
士官学校を出たばかりだというのに、既に名持ち。いろんな意味でアレな話ではある。だがそれも仕方ない。元はと言えば士官学校でひとのいい彼は演劇の出し物に出され、女装してシンデレラをやらされたのだ。つまりそれが原因。かの女性参謀はそれにひとめぼれしてしまった、というわけである。まさに器用貧乏と人のよさが生んだ悲劇と言えよう。
そんなわけで、彼には定期的に女物グッズが届くようになった。あまりに続くのでその噂は士官学校を飛び越え連合軍に密かに拡がった。しかもこんな尾ひれまでついて。
「お金持ちのマダムに魅入られた美少年・タカラヅカジュン」
…そりゃまあ、ドレスだのハンドバッグなど届けば誰もがそう思うだろう。それにしても哀れだ、ジュン。
閑話休題。
「…仕方…ないですね。やっぱ」
「はい、仕方ありませんね」
クスクス笑いを押し殺した女性士官にスーツを受取り、ジュンは更衣室に入った。
パイロットスーツというのは普通の服とは違う。機密性をもち全身にピタリと張りつく。一種のコーティングである。薄いとセクハラ状態になってしまうのである程度の厚さを持つようになっているが女性の、あるいは男性の体型を隠すのは不可能だ。まぁ問題のある部分はプロテクターや生命維持装置が付いていて問題ないのだが、身につける方としては全身タイツ気分といってもいい。かなりヌード感覚に近いものなのである。
「さて、着るか…」
気がすすまないようだが仕方ない。ジュンは全裸になるとスーツ器材を身につけ、コーティングをスタートした。
「…?意外に異和感がないな」
男と女では体型が違うはずなのに、異和感がない。それをジュンは不審に思った。
「ちゃんと注文通りのサイズになってるって事?…でもじゃあなんで男用と女用を間違えたりするんだ?」
それはですね、ジュン君。間違えてるわけじゃないからなんですよ。…それに、
「!!」
あるところまでコーティングが進んだところでジュンは、股間に凄まじい圧迫感を感じた。
「う、くく……こ、これは…辛い…」
胸のあたりが妙にフワフワ。脇腹がキュッと締めつけられてて窮屈。それはまだいい。しかし決定的なのはやはり、股間であった。
「う、うぅ…!?」
苦しまぎれに股間を覗きこんだジュンは絶句した。
「な…ない、ない、ない、ないっ!!!」
いや、ないのではない。強い圧力で押し潰されている上に強化コーティングが異和感なく幾重にも貼られた結果、存在がわからなくなっているにすぎない。男ならこの部分はわずかにもっこりさせて圧力を逃しているものなのだがそこは女性用、有無をいわさず無理矢理押し込められてしまったわけだ。
しかし、あまりのショックでウロの来てしまったジュンはそれに気づかない。
「…ぼ…僕は…僕は…」
まもなく、デルフィニウム基地では未曾有の大騒ぎが勃発する。男子更衣室から虚ろな顔の「少女」が内股歩きでよろよろと出現したからだ。見つけたのが何も知らない保安部だったからさぁ大変、スワ暴行事件かと色めきたった基地司令がジュンに気づき笑いながら解放してくれるまで彼は青い顔で座り続け、わかったらわかったで全基地の笑い者になったのだ。ジュンは泣きながらデルフィニウムに乗り込んだ。…そのスーツのままで。
がんばれジュン。史実通りに逃げきれば君にも普通の春がくる。ぷっくくくく。
「えっと、副長がデルフィニウムで戻られるそうです」
「え?ジュン君?どこ行ってたの?」
「…艦長。トビウメで彼を置き去りにしてしまった事をお忘れですか?」
「あれ?そうだっけ?」
「あ〜…哀れよねえ彼も。」
「そうですね。あんないい人なのに」
「「いいひと」ですか。いわゆる「もてない人」の特徴という奴ですね」
「ルリルリ…それはいくらなんでも」
「そうでしょうか?」
「え?」
ルリは真剣な顔をすると、ミナトの方を向く。
「確かに、いいひとなのは悪い事じゃないです。でも、万事が「いいひと」なのはあまりよくないんじゃないか、そう私は思うんです」
「…どうして?」
「そうですね…たとえば恋愛ですが、「いいひと」すぎると積極的になれないと思うんですよ。自分なんかとくっついて相手が不幸になるんじゃないかとか、そんなこと考えちゃって」
「…あぁ、そういう意味ね」
「はい」
確かにそれはその通りだろう。
いいひとの典型として、自分にあまり自身がなく積極的になれないタイプがいる。まぁ自信過剰にも困り者だが、ある程度の慢心も自分勝手も必要、ということなのかもしれない。
万能なひとはいないのだから。
「そんなこと考えるっていうことは…ルリルリもそういう経験、あるの?」
「はい、ありますよ」
「わぉ…言うわねえ」
「事実です…私の場合、ライバルが凄すぎて手も足も出なかった、というのもあるんですが」
「…そんなに凄かったの?」
「はい。鉄壁どころかディストーションフィールドです。私がバッタだと仮定して」
「…凄い例えねえ。」
「まぁ誇張はしていますが、桁違いだったのは事実です。もがいてももがいてもどうしようもない。…辛かったですねあの頃は」
「…」
誰だろう、とミナトは思った。
これが、わずか十一歳の少女の顔だろうか?物憂げで寂しげで。とてもじゃないがこれは子供の顔ではない。大人だってこんな顔の似合う女はそうそう居るとは思えない。
向こうの席に座るメグミ・レイナードだってこのような顔はできまい。こんな少女にこのような顔をさせてしまう男とは…いったいどのような者なのか?
「へぇ…。そりゃ、いい経験したわね」
だがミナトはその思いを隠し、くすっと微笑んだ。
「?」
「恋はね、女を綺麗にするものよ。ルリルリもきっといい女になるわね。その歳でそんな経験ができるっていうのは凄い事なんだから」
「…ありがとうございます」
「いいのよそんなこと。ま、今でもルリルリとっても可愛いけど♪」
「!」
「…ふふ(まぁ…これでこのまま大人になったら…それはそれで大変な事になりそうだけど)」
人形のようなルリ。そんな彼女が頬染めて照れる愛らしい姿を、ミナトは慈愛の笑みを浮かべて見つめた。
同時刻。格納庫付近。
「わざと彼らを逃すのか?全滅させた方が簡単なのだが?」
「んーだけどね、順当にいけば地球帰還後、提督になるのはあのキノコなの。他に誰も引き受けないっていう方が正しかったみたいだけど」
「だろうな。乗っている分には愉快な艦でもあるが、軍人として管理するなど我でも御免こうむる。胃がいくつあっても足りぬわ」
「あはは、そうかも」
影護と亜希だった。
「まぁわかった。こっちの細工は我がやる。そなたは熱血馬鹿を見張っておれ。こっちに来ないようにな。」
「…ま、あっちは問題ないと思うけどね。戦闘がないからあれが来る理由もないし」
「まぁな。だが用心はしておけ。慢心は身を滅ぼす」
「ええ。よろしく。気をつけて」
「ふっ。任せておけ」
亜希は影護にちいさく手をふると、ガイがいるであろう遊戯室に急いだ。
場所は変わり、遊戯室。
「なあ博士よぉ」
「なんだヤマダ」
「脳波ヘルメットって、もっと負荷が少ないよう改良できねえのか?ナナコさんが使えるようにとか」
「…無理だろうな」
「?なんでだ?なんか理由があるのか?」
ガイはちょうど、ウリバタケのシミュレータ改良と調整を手伝っていた。
サツキミドリで合流する三名のパイロットのうち、ひとりが眼鏡使用だったからだ。IFSシステムでは眼鏡の有無はあまり意味がないのだが、手動操縦を使う場合は調整が必要になる。そのため、眼鏡利用のできるプログラムをセット、さらに通常モードと切替えられるような仕掛けを組み込んでいた、というわけである。
「ヤマダ。脳波操縦がどうしてIFSにとって代わられたと思う?」
「?さあな。IFSの方が高速機動に向くからじゃねえのか?ヘルメットとか付けなくていいし」
「バカヤロ。…まぁそれも違いねえがそれだけじゃない。んーそうだな。簡潔に言えば、脳波操縦はアタマ、IFSは手足。そういう事かな」
「?…それって…考えながら走れるが同時にふたつは考えられないってことか?」
「お、わかるじゃねえか。ズバリその通り。
聖徳太子じゃあるめえし、人間は同時にいくつもの思考は普通できねえ。しかも脳波操縦の場合、頭で動きを「考えて」はじめて動ける。そのための訓練も必要なわけだ。…まぁ、亜希ちゃんみたいに速攻で動かせる例もなくはないが、ありゃあたぶんどっかで経験してるんだろうな。似たような事を」
「ふむふむ」
「それに比べてIFSはまさに手足の延長として動く。ま、「イメージをフィードバックする」という意味においちゃ確かに「考えて」はいるんだが思考のレイヤーっつうかレベルが違うんだなこれが。そもそも手足なんざ寝ぼけてたって動くだろ?」
「そりゃそうだ」
「そういう事。つまりIFSの方が簡単なうえに馴染みもいいってわけよ。
ちなみにエステの初期開発実験の話でな、エステに乗ったままテストパイロットを眠らせたりしてみたそうなんだが…」
「?どうなったんだ?」
「いやそれがな。エステごと寝返りうつわケツかきだすわ…爆笑もんだったらしいぞ」
「……」
「…傑作だろ?」
「…ぷ、くく、くくはは、ははははははっ!!!は、博士!!それマジかよっ!!」
「マジなんだなこれが。ま、開発初期ってやつには希にこういうバカ噺もあるもんさ。たとえばだな…」
「うんうん」
「…こっちは問題無し、か」
亜希はニヤリと笑うと、その場を後にした。
「…というわけで、失せるならとっとと失せろ」
「言われなくてもそうするわ。…それにしても、どういう風の吹き回しかしら?あんたはこの艦の他の連中とは違う。アタシを逃すくらいなら皆殺しにするタイプじゃなくって?それとも、あんたみたいな奴でも可愛い若奥さんには勝てないのかしら?なんたって、こんな艦にまで連れてくるくらいだものねえ。」
バカにしたように笑うムネタケ。せいいっぱいの虚勢なのだろう。
「…ふむ、確かに勝てぬな。あれは我など比較にならぬ化け物ゆえ」
「…は?」
あんた大丈夫?という顔をするムネタケ。影護は笑う。
「わからぬならよい。とっとと行け」
「い、言われなくても行くわよ。みんないい?」
ぞろぞろと男たちが立ち上がった。
「揚陸艇を準備してある。あれなら戻れよう。だが出るまでの間、くれぐれも乗組員と諍いを起こすな。よいな」
「ふん、なんとかしてみるわよ。こっちも余計な面倒はごめんだしね」
「してみなくてよい。結果を出せ。出さねば全員……斬る」
「!!!」
……ゾクッ!!!……
「…わ、わわわわわわかったわよ!そんな顔しないで頂戴っ!!」
「…とっとと行け」
「い、行くわよ言われなくても」
バタバタと足早に去る男たち。その背後で文字通り影のように立つ、影護。
「…嘘ではない。
単独で強い者と、弱いが力を呼び集める者。…最後に剋(か)つは後者に決まっておる。もっとも本人はそれに気づいておらぬがな。」
影護は妻の顔を思い、愉快そうに笑った。
「…痛い。痛いよ。父さん。母さん。…僕、どうしてこんな目にあうの?」
飛び続けるデルフィニウムの中に、完全にウロの来た虚ろな声が響いている。
声の主はショートカットの少女。男の子と勘違いされそうな中性的な雰囲気だがピンクの女性むけパイロットスーツがいかにもラブリィだ。スレンダーな体型。短いがボーイッシュでそれなりに愛らしい黒髪。基地の誰かの贈り物か、首にはリボンまで巻かれているのがさらにアクセントになっている。
……ていうか、変わり果てたアオイジュンである。
ジュンは本能的に、というか奇跡のような確率でナデシコに向かって飛び続けていた。なにしろほとんど操縦していない。自分のあまりの姿と屈辱の数々に、とっくの昔に彼の繊細な神経はオーバーロードに到達しているのだ。
デルフィニウムはひたすらに、ナデシコに向かって飛び続けていた。
「デルフィニウム一機、本艦に向かって接近中。連合軍第7デルフィニウム部隊所属の機体です」
「ジュン君かな。連絡とってみてメグミさん」
「はい。こちらナデシコ、こちらナデシコ。接近中のデルフィニウム、応答願います。繰りかえします…?変ですね?反応してるみたいなんですが、こちらに送信してきません」
「やだ。何かあったのかしら?」
「…ルリちゃん、デルフィニウムの状態、確認できる?」
「やってみます………緊急信号は出ていませんが、挙動がおかしいですね。まるで酔っ払ったような、意識が朦朧としているような、そんな感じです」
「…」
ユリカはしばらく考えていたが、
「ルリちゃん。こっちから誘導できるかな?あれ」
「デルフィニウムにハッキングするってことですか?…できなくはないですが…」
「私が責任とるよ。やってみてルリちゃん。故障ならともかく乗員に何かあるとしたら人道上無視できないもの」
「わかりました。30秒ください」
「うん、よろしくね」
今の会話で、ブリッジの数名は「そんなことできるのか?」という顔をしている。
「…ホシノルリには、そのような能力が?ミスター」
「正しくは彼女でなく、お友達のオモイカネ…つまナデシコのコンピュータの仕事ですよゴートさん。ナデシコは機動兵器母艦(バトルスター)としての側面もあります。ですから万が一パイロットが意識不明の時など、緊急リモート制御を行う機能があるわけてして、はい」
「ふむ…」
ゴート・ホーリの懸念は、実のところ大当たりであった。
確かにナデシコにはそういう機能がある。しかしナデシコと縁もゆかりもないデルフィニウムにそれが使えるわけがない。つまりこのハッキングはルリ単独の能力によるものなのだ。
プロスペクターはルリの能力を本人に聞いて知っている。しかしその能力が露見する怖さもわかっている。だから隠したわけだ。
果してそれは正解だった。ブリッジの面々はそれで納得したようだからだ。
「侵入完了。パイロットの意識が戻るまでですがこちらからリモート制御可能です」
「格納庫まで誘導開始。あと、格納庫に誰かいたら退避させちゃって。メグミちゃん」
「はい」
「医務室を呼び出して。伝染病の可能性もあるから防疫準備。あと格納庫で検査できるか確認して。ダメなら船外で調査しなくちゃいけないから」
「わかりました。」
てきぱきと指示を出し始めるユリカ。やはりこういう時は強い。
「ルリちゃん。誰が乗ってるかわかる?」
「今、写します。スクリーンに投影。」
ブリッジ前方に大きなウインドウが開き、コックピットが映る。その瞬間、
「「「………はい?………」」」
ブリッジの面々は、固まった。
デルフィニウムの中。
「…ぼくは…ぼくは…」
もはや完全におかしい少年少女ジュン。コックピットの光が「手動」から「自動」に切り替わったのにも気づかない。ブツブツと意味不明の言葉をつぶやいている。
…と、そこにウインドウがひとつ開いた。
『………はい?………』
『…だ、誰この女の子?』
『……っていうか……ジュン君!?』
『えぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!!』
『ジュン君!どうしてそんなカッコを?もしかしてそんな趣味だったの?』
『たぶん違いますユリカさん。仔細はわかりませんがたぶん「着せられた」んでしょう』
『え?どうしてわかるのルリちゃん?』
『あのサイズの女性用スーツは、同体型の男性にはかなりの苦痛のはずです…つまりその』
『!あ、そっか。(検閲削除)が締めつけられて苦しいわけね』
『み、ミナトさん!小さな娘さんのいる場所でそんな露骨な発現を』
『正解ですミナトさん。私は付いてないからわかりませんが相当の苦痛ではないかと』
『ルリさんも平気で答えないように!』
『大丈夫です。私、少女ですから』
『あ、あのー。そんな事より今はアオイさんがまずいんじゃ…』
『え?なに?メグミちゃん?』
『あの顔色、まずいですよ。ショック起こしかけてるかも』
『え〜〜!!!る、ルリちゃん急いで!ジュン君死んじゃう!!』
『はい、わかりました』
同時刻。格納庫近く。
「連中は出ていったか?…むう、ようやく発進か。ふん、クズどもめ。亜希の頼みでなくば綺麗に掃除してやったものを…」
と、その時、静穏設定されたウインドウが小さく開いた。
「!亜希か。いつコミュニケをゲットしたのだ?」
「さっきユリカに貰ったの。それより影護、奴等は?」
「ああ、それなら今出ていくところだ。何やら騒ぎが始まっておるようだがぎりぎり間に合うな」
「え〜!!!ま、まずい、まずいよそれ!!」
「?どうした?何かあったのか?」
「デルフィニウムが今、格納庫入り口に接近してるの!ブリッジからの遠隔操縦で!」
「!なんだと!?」
影護は格納庫を見た。
「いかん、間に合わんぞ亜希!すぐ止めさせるのだ!激突するぞ!!」
「ルリちゃん!デルフィニウム止めて今すぐ!!」
「あ、亜希さんどうされたんですか?今実は…」
「いいから!格納庫出口にひなぎくがいる!ぶつかるよ早く!!!」
「!!」
その瞬間、ルリはその意味に気づいて真っ青になる。
「ひなぎく?誰が揚陸艇なんか動かしてるの?」
のほほんとした声でメグミが首をかしげるが、ルリはそれどころじゃない。
「オモイカネ、デルフィニウム緊急停止!同時に格納庫出口緊急封鎖!ロック?かまわない今すぐ急いで!!!」
「…」
朦朧としているジュン。デルフィニウムのコックピットである。
「…なに?何か聞こえる…?」
さっきからの慌ただしい通信のやりとりで、ようやく意識が戻ったらしい。ふるふると頭をふる。
「…いたたたた…あっく…」
股間の猛烈な激痛に身をよじる。
皮肉なことに、激痛と同時にどこかの性感帯でもくすぐられているのか、ジュンの股間はピク、と反応する。そして激痛が倍化。そして意識が遠のく。そんな地獄のシーソーゲームを実は出発以来、延々と繰りかえしていたりする。
「も…もうダメだ…僕はもう……?」
ふと意識が前にいく。
「…え?」
閉じられていく格納庫。ずんずん大きくなるひなぎく。コックピットでムンク状態になっている軍人たち。
「え?……うわぁぁぁぁぁっっ!!!!」
咄嗟にジュンは、ブーストペダルを踏んでしまった。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
どんがらがっしゃん、という破壊音、それにいくつかの絶叫がこだました。
「…はぁ。死傷者がなかったのは幸いですねえ。」
『いやはや。連合軍人ともあろう者が揃いも揃って申し訳ない。脱走を試みた愚か者どもはこちらで引き取ろう。ビックバリアの外で待機している連絡艇に引き渡してくれたまえ。』
「いえ、いいんですよミスマル提督。幸い修理費もいただけるという事で」
『無論。今度という今度ばかりは我々も遺憾の至りである。ところで修理はどうかね?』
「はい。幸いにもこちらの被害はひなぎく一機と格納庫外壁の扉一枚のみでして、これらについては既に外洋部隊の方から提供の申し出を頂いております。ムネタケ提督ならびにミスマル提督ご両方には、迅速なるご対応、深くお礼を申し上げます」
『なに、気にせずともよい。今やナデシコは我ら軍の代理として火星に向かう立場でもあるのでな。』
「そう言っていただけると助かります、はい」
プロスペクターとミスマル提督が、胃に穴の開きそうな腹のさぐり合いをくりひろげていた。
「…はぁ。なんだか疲れる会話ですね。」
「仕方ないですよメグミさん。ナデシコの立場はそれだけ微妙なんですから」
「ま、援助してくれるって言うんだから有難くいただくべきよね。それでアオイ君はどうしたのかしら?ルリルリ、何か知ってる?」
「それがですね…聞きたいですか?」
「うん、聞きたい。…だいぶ悪いの?」
「それがその……こ、壊れちゃったそうで」
「?壊れた?何が?」
「その…なんというか…」
「??なに?ルリルリ?」
「…耳貸してください、ミナトさん」
「え?う、うん」
ルリの側に行き耳を貸すミナト。ごにょごにょ、と何かをしゃべるルリ。顔が赤い。
「えーーーーーっ!!キンタマ潰れちゃったのぉ!?」
「み、ミナトさん!!そんな大声でタマ潰れたなんて言っちゃダメですっ!!」
「……」
「……」
「……」
「……」
「…あーコホン。お二人ともちょっとここへ」
「「!」」
「…おふたりとも?」
「…は、はい」
「…えっと」
こわごわプロスペクターに近づくふたり。そして、
「「あいたっ!」」
「…本来なら減俸ものですよお二人とも!そりゃ女性にはこの気持ちおわかりにならないかもしれませんが、仲間でしょう仮にも!!」
「ごめんなさ〜いプロスさん。」
「…すみません。軽率でした」
「…わかればいいんですよ。わかれば」
拳骨ヒゲオヤジは、にっこりと微笑んだ。
「…それにしてもプロスさん。アオイさん、職務復帰できるんでしょうか?」
「すぐには無理でしょうな。まずは心身のケアが必要ですし…もっとも復活次第、復帰をお願いする次第ではありますが」
「クビにするわけじゃないのね?」
「ははは、本人が望むか著しく契約不履行でもない限りそれはありませんな。確かに途中で艦を離れましたが彼に落ち度はありません。それに先日の国連総会の折り、ユリカさんだけでなく彼も裏でいろいろ動き回っていた事がわかっておりますし」
「そうなんですか…がんばってたんですねアオイさん」
「はい。
確かに勤務外の行動ではありますが、そういう機転のきく、しかも有能な人物を手放す気はさらさらありませんよルリさん。火星行きは難しいですが、帰還のおりにはぜひ我々をお手伝いして頂こうと思っておりますです、はい」
「それ聞いて安心しました。よかったです」
「私もそう思いますですよ、はい」
同時刻、艦長室。
「だからね、影護さん。亜希さんに副艦長やってほしいの!お願い!ね!」
「…」
「…ねえ影護。私からもお願い。許可してよこの通りだから」
「…」
ユリカと亜希が、影護に頭をさげている。
「……確かに今回の事は事故だ。しかも我らも関わっておる」
「…」
「…だが、正直いって亜希に副艦長はちと重すぎるぞ。戦いがどうの以前にな」
「えー、どうしてですか?だって聞いた話じゃ…」
「うむ。確かに亜希には艦長歴がある。だがな亜希」
「?」
「わかっておるのか?ユーチャリスに乗っていたのはそなたと黒き妖精、ただふたりだったのだぞ?」
「!!!」
亜希の顔色が変わった。
「できるのか?場合によっては火星の避難民とあわせ、数百名の生命を背負うかもしれんのだぞ?正式に副艦長を拝命する、というのはつまりそういう事なのだ」
「…そ…それは」
絶句してしまう、亜希。
「ミスマルユリカよ」
「あ、はい」
「ここだけの話だが、亜希はかつて黒い王子と呼ばれ、一万人以上の住人ごと六つのコロニーを落とした事がある。それは知っておるか?」
「…ええ。ルリちゃんに聞きました」
「だが、こやつは冷血でもなんでもない。執念と怨念で狂っておったからできただけのこと。本来はこの通り、虫も殺せぬ娘なのだ。優しいとかではない。身体が受けつけぬのだ」
「…」
影護は、ふうっとため息をついた。
「亜希がこのように弱くなったのは…推測にすぎぬがおそらく贖罪なのだろうと思う。こやつは跳躍前、既に死にかけておった。しかも我と生命をかけた最後の戦いの最中。…跳躍の際、こやつが何を思ったかはわからぬ。だが遺跡はきっと感じたのではないかな。生きたいという願いと、もう殺したくないという悲しみを」
「…それで…亜希さんはこんな身体に?」
「うむ。
全ては推測にすぎぬ。だがこの数年、共に暮らして我が得た結論はそうだ。こやつは殺せぬ、殺すことができぬ。気持ちがどうのでなく全身全霊がそれを受けつけぬ。だから戦えぬし戦わせてはならないのだ。何かを倒せば亜希も傷つく。直接戦闘などして殺し殺されれば、壊れてしまうやもしれぬ」
「…」
蹲ったま固まっている亜希を、そっと背中から影護は包んだ。
「…」
「恐がらずともよい、亜希。そなたには我がおる。
もう殺さずともよい。失う恐怖に泣かずともよいのだ」
「…」
「…いい子だ」
静まりかえった艦長室。こち、こち、と置き時計だけが時を刻んでいる。
「…副艦長は無理であろう。オブザーバーでも本来はきつい。だがこやつが望んでいる事でもある。そのくらいは許そう」
「…ありがとうございます」
「礼などいらぬ。…それより、亜希の願いを適えるために力を貸せ」
「亜希さんの願い、ですか?」
「そうだ。
これが望むはそなたやホシノルリたちが無事に戦争を切りぬけ、それぞれの道を歩む事。簡単な道ではないぞこれは。亜希は簡単に思っておるようだがこれは戦争の完全終結とイコールに近い。そなたらがこの世界から跳躍により離れ、永遠に戦いのない世界へでも行かぬ限りは、な」
「…なぜ、ですか?」
「生まれながらの遺伝子細工にして星ひとつすら掌握する電子の妖精ホシノルリ。火星に生を受け世界最高純度のA級ジャンパー体質の持ち主であるそなた。そなたらは間違いなく狙われる。少なくともこの蜥蜴戦争に、きっちりと終始符を打たぬ限り、な」
「…そう、ですか。」
「…そのような顔をするな、ミスマルユリカ」
「え?」
くく、と、影護は微笑んだ。
「苦難ではあるが亜希がいれば、少なくとも仲間集めはたやすい。道はあるであろう」
「…どういう事、ですか?」
「亜希は弱い。だが、他人を異様にひきつける能力があるのだ。ウリバタケ整備班長はこやつのため、すでにいくつもの機械をこしらえた。あの熱血馬鹿男も優秀なパイロットとして開眼をめざしている。もはやゲキガン狂いの特攻馬鹿ではない。これらは偶然に見えるがそうではない。亜希がやらせておるのだ」
「……」
「前の歴史でも確かにナデシコは活躍した。だが此度はおそらくそれを越えよう。コマはある。後はそれをどう動かすか、それだけの事よ」
「…」
ユリカは、じっとだまっていた。
影護の言葉をひとつひとつ吟味するかのように、じっと聞いていた。そして、
「わかりました。影護さん」
「…」
「これからもよろしくお願いします。私も協力させていただきますから」
「うむ。よろしく頼む」
ユリカと影護が、手をにぎり合った。
確かにそれは、前の歴史ではありえない光景だった。史実でこの時点のナデシコは戦える者といえば宇宙も飛べないアキトのみ、エンジンのチェックすらも完全ではなかった。しかし今は影護がおり、ガイも健在なばかりか開眼、ルリも以前とは比べ物にならない能力を保持し、ユリカも天才艦長としての才能を如何なく発揮できる状況にある。エンジンテストもルリの提案のもと、既に完了に近い状態にあった。
既に、全てはもう違うのだ。
「ユリカさん」
「!」
突然にウインドウが開いた。ルリだ。
「影護さんも亜希さんもおられましたか。まもなくナデシコはビッグバリアを通過します。既に連合軍との連絡によりバリアは停止されていますが不測の事態もありえます。指示をいだたけますか?」
「…ディストーションフィールドを全開に。パイロットは待機。離脱直後を狙う木星蜥蜴の攻撃にそなえてください。私たちもすぐ行きます」
「わかりました」
ウインドウが閉じた。
「さ、行きましょう影護さん。亜希さんも」
「…わ…わたし…」
「…ねえ亜希さん」
「え?」
にっこりと微笑む、ユリカ。
「私、ブリッジでお茶飲みたいな。きっとみんなも座りっぱなしで咽乾いてると思うの。煎れにきて貰いたいんだけど…ダメ?」
「…」
亜希はコクンと頷いた。ユリカは微笑み、影護がよっこらしょっと亜希をだきあげた。
「あ、お姫様抱っこ。いいなー」
「そなたもパートナーを早く得るがよい。…といっても地球では木連より婚期は遅いのか。そなたにはもう相手はおるのか?」
「相手ですか?いませんねえ。…ま、今度地球に帰ったらアキトには逢いたいんですけど」
「アキト…テンカワアキトか」
「はい」
「………そうか。逢えればよいな」
「はい!」
ルリから報告を受けていた影護は躊躇した。だが結局、言わなかった。
ナデシコはただ、漆黒の宇宙に向かって航海を続けていた。
[脱出編、完]
hachikun-p
平成15年11月11日